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脳神経・精神領域
脳神経内科の歴史
三重大学名誉教授
日本神経学会元代表理事
葛󠄀原茂樹 先生
我が国の神経学の歴史においては、過去に4回、命運を左右するような難局に直面し、それらを乗り越えて今日のように発展してきた。
先達たちの活動の基礎の上に、現在があり、今後の発展が築かれていくことを、これから本格的にこの分野に飛び込む皆さま方に理解していただければと願っている。
我が国における神経学の歴史は、1902年に東京帝国大学内科学講座の三浦謹之助教授と、精神医学講座の呉秀三教授が中心になり、1902年に「日本神經學會」を設立し、「神經學雜誌」を創刊した時にさかのぼる。
三浦謹之助は、ヨーロッパ留学中に臨床神経学の父とも称されるフランスのシャルコーの下で神経学を学び、我が国の神経学の創始者とも称されている。
「日本精神神經學會」への改称
この学会は発足当初は神経内科医と精神科医がほぼ同数で活動していた。しかし、次第に神経内科医の減少、精神科医の増加により、精神科中心の学会に変わったため、1935年には、「日本神經學會」から「日本精神神經學會」へと学会名が変更された。
この後の神経学は、戦後の再興まで長い冬の時代を過ごすことになる。
「日本臨床神経学会」の創設
第二次大戦後に再び神経学研究が盛んになり、神経学会再興の機運が高まり、日本精神神経学会を精神医学会と神経学会に分離することが提案された。
その動きに応えて、1954年には、「日本精神神経学会」は精神医学部門と神経学部門の2部門制となった。しかし、神経独自の学会の設立は実現できなかった。
そこで、1960年に「日本臨床神経学会」が創設され、ここでようやく、神経学は単独の学会として独立を果たすことになる。
その後、1963年に「日本臨床神経学会」から、「日本神経学会」に改称し、今日に至っている。
日本臨床神経学会創設期は、原因不明の「奇病」と恐れられていたスモンや水俣病が大きな社会問題となった時期と一致していた。
これらの疾患の実態と原因解明の研究の中心となって活躍したのが、神経学会の医師たちである。その貢献を通じて、わが国の神経学は成長・発展し、医学界と社会に認知されていった。
他にも、近年のサリン事件時の対応や救急処置に関する助言と指導、クロイツフェルト・ヤコブ病サーベイランスの構築など、社会問題への貢献を通じて、「神経学」への認識と理解が広がった。
この国民医療への貢献が、神経学の社会的な認知と評価を獲得していったという流れも忘れてはならないことである。
「専門医制度」を巡る決断
その後、順調に成長・発展してきた神経学会の近年の大きな転機となっているのが、「専門医制度」を巡る動きである。
2002年頃に始まった公的専門医制発足時に、日本神経学会が神経内科を基本領域、「いわゆるⅠ群」を希望したが認められなかったため、2002年の学会評議員会、総会において、内科学会のサブスペシャリティ専門医「いわゆるⅡ群」受け入れを決定した。
当時の記録を読むと、「Ⅲ群に留まりあくまでⅠ群を目指すべき」という原則路線と、「Ⅱ群の公的専門医になった上でⅠ群化を目指すべき」という現実路線の間で激論があったようである。
現在、新制度の運用が混乱している現状もあるが、2018年1月の学会の臨時社員総会で、今後は神経内科の基本領域化を目指す方針が決定された。併せて、国民に分かり易い診療科名として、「神経内科」から「脳神経内科」への名称変更も決定されている。
今後の神経学の歩む道
これまでの神経学の歴史を振り返ると、内科と精神科の間でアイデンティティの確立に奮闘し、社会的地位を築いてきた経緯がよく理解できるだろう。
今後の神経学が、医療に対してどのような道を歩むべきかを考察する。
希少難病や神経変性疾患は神経学ならではの分野で、極めて大切である。しかし、脳神経内科が「基本的診療領域になるべき必要性」を社会に認知してもらうには、神経学の知見を活かして、広く国民が求める医療に応えていくことが必要であろう。
そのためには、国民の多くが罹患するいわゆる「コモンな」脳神経疾患である、「脳卒中」や「認知症」、「てんかん」といった領域に積極的に取り組み、名実ともに脳神経疾患診療の主力になっていくことが不可欠であろうと考えている。
現場で脳神経疾患医療に日々取り組んでおられる皆さまの今後の活動に期待している。